鹿児島ウォッチャーは「鹿児島を深堀する」ネットメディアです

鹿児島ウォッチャーは「鹿児島を深堀する」ネットメディアです

  1. HOME
  2. レポート
  3. 赤松小三郎を知っていますか?

コラム

赤松小三郎を知っていますか?

2019.1.21
執筆者:ky

 「赤松が生きていれば、日本の近代史はまったく変わった形になっていたのではないか」

とまで言われる赤松小三郎は信州上田藩士で、明治維新の前夜、普通選挙による議会政治を日本で初めて提言した政治思想家であり、英国式兵学の専門家でもあった。慶応2年(1866)10月、英国式兵学の教官として薩摩藩にスカウトされ、京都の薩摩藩邸で京都に駐在していた薩摩藩士約800人を指導した。赤松は西郷より3歳下、大久保より1歳下である。さらに慶応3年(1867)5月には薩摩藩の依頼で英国で公刊されたばかりの「重訂英国歩兵錬法」を翻訳出版した。島津久光はこれを大そう喜び、赤松に世界最新式の騎兵銃をお礼に贈ったという。

 しかし、その僅か4か月後の9月27日、赤松は、薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋)と田代五郎左衛門に京都で暗殺された。

 翌慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発する前年の慶応3年(1867)はめまぐるしく政治が変転した年だ。赤松はその年の5月に徳川政権以降の日本の統治システムの構想を「建白書」として作成した。それは普通選挙による議会設置を軸とし、二院制の議会、身分や財産にとらわれない普通選挙、議会の決定事項には天皇すら拒否できない、人権の尊重など、ヨーロッパの先進国にもない斬新な内容だった。

 赤松はその建白書を5月17日に徳川政権に大きな影響力を持っていた前福井藩主松平春嶽に渡した。日を置かず幕末の政治の行方の鍵を握っていた薩摩藩主島津久光にも、そして徳川幕府にも渡したのである。6月22日に結ばれた薩摩藩と土佐藩の「薩土盟約」には赤松の建白が明らかに反映されていた。それは武力討幕でなく政権を徳川から朝廷に返上させ、その後に議会と憲法を制定するという内容であった。土佐の後藤象二郎から打診されたこの案について、この時点では薩摩の西郷も家老の小松も同意していたのである。しかし、わずか2か月後に急転直下、薩摩藩と長州藩は武力討幕に方針を変更した。8月14日のことだ。その間に何があったのか。

 一方、当時の薩摩藩では京都に駐在していた藩士たちにも、国元でも、長州と連携した武力討幕に反対する勢力が数多くいた。「なぜ長州に義理立てして、700年の伝統ある御国家(藩)の名誉を汚すのか、逆賊ノ長族ニ与(くみ)シテ、不義ノ逆賊タルヲ以テ、是ヲ破ルノ論判ニテ、建白シキリ」などかって激しく対立した逆賊長州藩と共同作戦をとるのは、自らを逆賊に陥れる危険があるとして、一種の生理的とさえ思われる拒否反応があったものと思われる」(芳即正(かんばしのりまさ)「島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したか」(新人物往来社)。

 さらに芳即正氏は「慶喜という人は他人を見下す思い上がりの強い人物だったようである。(中略) ともかく久光は5月23,24日(四候会議)の慶喜の態度には我慢できず『切歯嘆息の至り』と憤慨している。慶喜の態度は幕権確立のために、ただ朝廷を利用しているだけではないか。朝廷の権威などどこにあろう。ここで久光は完全に慶喜の態度に失望し、慶喜と決別する意思を固めたのだと思われる」(同著)

 一方で武力倒幕に一足早く舵を切った西郷や大久保たちはなぜそう決断したのか。それは武器商人につながるアーネスト・サトウの扇動と関が原以来の徳川への復讐に燃える長州藩の先鋭分子の圧力に押されてしまったからではなかったのか。当時、長州藩は品川弥二郎、山縣有朋、世良修蔵などを京都の薩摩藩邸に常駐させて薩摩藩に武力討幕を督促していた。明治維新史には教科書で教えられた通説とは違う史実がある。

 こうして“内乱の発生は外国の干渉を招くとして国内対立を極力避けて、ずっと公武合体論による国力の充実を主張してきた”島津久光も武力による討幕に舵をきったのである。国父、久光の権限は絶対で、一藩士に過ぎない西郷や大久保たちが武力討幕を藩として決める権限などなかった。 

 薩摩藩が武力討幕に踏み切った後も、上田藩士赤松小三郎は、徳川と薩長の内戦を回避させようと必死の説得活動を続けていた。赤松にはそうするだけの理想と信念があったに違いない。この赤松の動きは、武力討幕に突き進む西郷や大久保たち、ましてや長州藩にとっては邪魔だった。

 一方、薩英戦争以来、関係を深めていた薩摩藩と英国、その外交官アーネスト・サトウ(※)の働きかけに薩摩藩、とくにサトウと親しかった西郷が大きく影響されたのではと推察される。

 「サトウはこのように、いたるところで過激派(志士)たちを挑発し、武力決起を促して回っていた。サトウが武力革命を鼓舞して回った背景はじつに単純であろう。薩長に武器を売りつけて儲けようとしていた長崎のグラバー商会のトーマス・グラバーはサトウの盟友であった。グラバーは、薩長と幕府とを問わず、武器取引で儲けようと大量の武器を仕入れていた。内戦が起こってくれなければ困ることになる」(下記参考文献 P.55)

 信州上田藩士、赤松小三郎の暗殺に、明治維新の雄藩薩摩藩が二重三重にからんでいたことを現代の薩摩人は歴史の事実として知っておかねばならない。赤松を評価した久光(実際、久光の本音は赤松の建白書に近かったのではないだろうか)、赤松の暗殺を指示したと疑われる西郷と大久保、暗殺を実行した桐野と田代、そして赤松の暗殺を一生負い目に感じた赤松の弟子東郷平八郎ら、それぞれの薩摩の先人たちがいたことを。

 東郷平八郎と上村彦之亟は日露戦争の翌明治39年(1906)5月に長野の善光寺で開催された日露戦争戦没者慰霊祭に出席した帰途、上田に立ち寄った。そして赤松の墓参を行い遺族に弔問金を渡したという。さらに大正13年(1924)に赤松の名誉が回復され従五位が追贈されると東郷は赤松顕彰碑の碑文を揮毫している。それから10年たった昭和8年(1933)に長野県の教育者岩崎長思が赤松暗殺事件の究明のために東郷に取材を申し入れたが、「(そのことについては)話したくない」と取材を断ったという。

※アーネスト・サトウ (明治維新前後に日本に赴任していたイギリスの外交官。「一外交官の見た明治維新」岩波文庫)の著者として有名。西郷隆盛と親しかったことでも知られている。

 

参考文献 「赤松小三郎ともう一つの明治維新」(関良基 作品社/2016) 

ky

記事の評価、コメントの投稿には、会員登録が必要になります。

会員の方

パスワードをお忘れの方、
再設定を希望する方はこちら

会員以外の方

鹿児島ウォッチャーは無料会員制です。
会員登録をされる方はこちらから

お申込み
『稲盛経営』実践の手引き
稲盛経営
「ウォッチ!県議会 県議会って何だ」
PCサイドバナー(中・下)
ページの先頭へ