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コラム

シリーズ「歴史を学ぶ」③ フランシスコ・ザビエルと薩摩人アンジロー

2018.6.8
執筆者:ky

 

 JR鹿児島中央駅から熊本方面へ向かう電車で約20分、東市来(ひがしいちき)駅で下車して10分ほど歩くと市来(いちき)城址に着く。今から470年前に日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはこの市来城を2度訪れ、延べひと月ほど滞在した。市来城跡は標高100㍍の小高い丘だが、今はかって城や教会があったことを思わせるものは何もない。鶴丸城とも呼ばれた市来城は島津藩の出城だった。城主新納(にいろ)康久は家臣のミゲル(日本名不詳)が鹿児島でザビエルの法話を聞いたことがきっかけで城下でのキリスト教布教を許可した。こうして康久夫人、2人の子息を始め約90人がキリスト教信者になったという。ザビエル来日450年を記念して、2008年4月、「市来鶴丸城下を21世紀に活かす会」が市来鶴丸城跡にザビエルと家老ミゲルの像を建立した。その理由を米村秀司副会長(鹿児島シテイエフエム社長)に聞いた。

 「ザビエルが来日した16世紀半ば、市来鶴丸城周辺では宣教師など多くの外国人が行きかい、城下の人たちと交流していました。このことはローマのイエズス会古文書館に保管されているザビエルの書簡に書かれています。この地(現日置市東市来町)は日本で初めて日本人と西洋人が交流した歴史的な場所です。このザビエルとミゲルの足跡を全国に発信し、地域活性化のテーマにしたいと多くの方々の賛同を得て設置しました」

 1549年(天文18年)8月15日、ザビエルは鹿児島(市)に上陸した。ポルトガル人によって種子島に鉄砲がもたらされた6年後のことだ。マラッカで知り合った日本人アンジローが同行していた。ザビエルは丁度1年、鹿児島で布教活動をした後、翌年9月に鹿児島を去り、平戸を経由して山口、京都へ行く。都の京都へ上ったのは天皇と将軍に全国への布教許可を得るためだった。しかし面会はかなわず11日間滞在しただけで山口へ戻った。大内義孝の庇護を受けた山口には5カ月滞在して、1551年8月には大友宗麟に招かれて豊後(大分)へ移動する。ザビエルはその豊後にも3か月滞在しただけで、11月に沖の浜(港)から離日し、再び日本に来ることはなかった。こうして2年3ケ月のザビエルの日本布教の旅は終わった。

 フランシスコ・ザビエルは1506年(日本は室町時代)、ピレネー山脈のスペイン側のすそ野にあったナバラ王国の貴族の家に生まれた。ナバラ王国のあったスペインのバスク地方の人々は血気盛んな気質で有名だ。ザビエルは28歳の時、留学先のパリで知り合ったイグナチオ・ロヨラとともにイエズス会を創立した。イエズス会はプロテスタントの宗教改革の動きに対抗するカトリックの改革派であり東洋布教に力を入れていた。時はヨーロッパから西に向かうスペインと東に向かうポルトガルによる大航海時代だった。ポルトガルのインド提督アルブケルケは1510年にインドの西岸ゴアを海軍基地とし、翌年にはマレー半島のマラッカ王国を滅ぼし商館を置いて東アジア貿易の拠点とした。ザビエルはこのゴアとマラッカを足場にインドやマレー半島で布教活動をしていた。

 ザビエルを日本に案内したアンジローはポルトガル語を喋ることができた。1511年頃に鹿児島(市)か根占(ねじめ/現在の南大隅町)出身とされるが名前も素性も正確には分かっていない。アンジローは(はっきりした根拠はないが)人を殺したために、1546年暮、山川港(現指宿市)からポルトガル船で国外脱出を図った。その船の船長アルヴァレスがたまたまザビエルの友人だったので、1年後の1547年12月7日、マラッカでザビエルとアンジローは出会うことになる。ザビエルはアンジローを通じて、日本人の知的レベルの高さや識字率の高さを知った。また日本にキリスト教にとってライバルともいえるユダヤ教やイスラム教が進出していないことも分かった。それらのことがザビエルの日本布教の決断につながった。もちろんイエズス会の東方布教のスポンサーであったポルトガル王ジョアン三世の東アジア貿易拡大の先兵になる意図もあった。実際、ザビエルは1541年4月7日、たまたま35歳の誕生日に、リスボン港から6隻のポルトガル艦隊の一隻「サンチャゴ号」に乗ってインドのゴアを目指したのだ。当時のマラッカでは琉球王国との貿易が盛んだったが、マルコポーロの「東方見聞録」(1477年初版)によってヨーロッパにも存在が知られていた黄金の国ジパング(日本)との直接貿易はなかった。日本はポルトガルにとっても魅力的な国だったのだ。

 ともあれ、ザビエルの日本布教の旅は苦労の連続だった。「ザビエルにとって間の悪いことに当時の日本は、親鸞、道元、日蓮などを輩出した直後で仏教について宗教的な成熟を達成していた。一方、ザビエルは仏教についての知識が全く無く、キリスト教が唯一絶対でそれ以外の宗教は全部悪魔が創ったものと本気で信じていた。その教理は日本人をとうてい納得させられなかった。ザビエルは同僚へ送った手紙の中で『もう精根尽き果てた』と弱音を吐いている」(土居健郎「聖書と甘え」PHP新書)

 日本になぜキリスト教が広まらなかったのか。ザビエルが一神教のキリスト教をもたらしたころの日本は538年に伝来した仏教と神道の「神仏習合」の1000年近い歴史があった。当初はザビエルのキリスト教布教に好意的だった戦国領主たちはポルトガルとの貿易の利を期待していたし、仏教の僧侶たちはキリスト教を仏法の一派とみなしていた。しかし、両者の宗教観は次第にかみ合わなくなっていく。ザビエルたちの鹿児島での布教が僧侶たちの畜妾、男色行為の批判に及ぶに至って両者の亀裂が深まったと言う。(山田著、p.108)

 ザビエル離日から約60年後の1613年(慶長18年)、徳川幕府(二代将軍秀忠)はキリスト教の全面禁止に踏み切る。当時のキリスト教信者は全国で約30万人と推定され、全人口の約1%だった。それから400年、日本のキリスト教信者は96万8千人(2016年)で全人口の約0.7%である。人口100人当たりのキリスト教信者数を都道府県別にみると1位の東京都(6.29人)、2位の長崎県(4.75人)が抜きんでており、上位10県には長崎のほかに九州の3県が入っている。6位熊本県(0.98人)、8位福岡県(0.91人)、そして9位鹿児島県(0.87人)である。ザビエル離日後もキリスト教を奨励した大友宗麟の領地(大分)の信者は全盛期に約1万人とも7万人とも言われているが、いまの大分県にその遺産はない。

 ザビエルを日本へ案内したアンジローは、ザビエルが鹿児島を去った僅か5か月後、再び日本を出国する。詳細は不明だが棄教してイエズス会とは無縁の余生を送ったという。一方、ザビエルは中国での布教を目指して待機していたポルトガル領マカオに近い川手島(サンチアン)で病気(肺炎?)のため46年の生涯を終えた。キリスト教の日本伝来に貢献したアンジローの墓が(伝承ではあるが、なぜか)市来鶴丸城からほど近い日置市伊集院町にある。   (KY)

 

参考文献 (「キリスト教伝来と鹿児島」山田 尚二/斯文堂/1999)

ky

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