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コラム

シリーズ「歴史を学ぶ」② “世界史”に足跡を残す悲運のサムライ

2018.2.5
執筆者:ky

 

 いまから約400年前、太平洋と大西洋を横断してスペインとローマへ赴き、外交と貿易交渉に苦闘したサムライがいた。仙台藩主伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の支倉六右衛門常長(通称・はせくらつねなが)である。常長は慶長18年(1613)9月15日、日本人140人、宣教師ソテロなどスペイン人40人とともに、木造帆船サン・ファン・バウティスタ号で宮城県牡鹿半島の小さな入江(石巻市月(つきの)浦(うら))からメキシコのアカプルコを目指して出帆した。一行の中には徳川家康が潜り込ませた監視役やこの仙台藩のスペインとの直接貿易交渉の企てを後に妨害することになるスペインの遣日大使ビスカイノもいた。

 常長一行は出発から1年半後の元和元年(1615)1月2日、マドリードでスペイン国王フェリペ三世に謁見し政宗からの親書と進物を渡す。その後、バルセロナを経由してローマへ移動し9月10日にはローマ教皇パウロ五世に謁見した。プロテスタントの台頭に脅かされていたカトリックのスペイン国王とローマ教皇は一行を歓迎したが諸手を挙げてのものではなかった。徳川幕府のキリスト教弾圧の動きがスペインにもローマにも伝わっていたからだ。スペイン国王フェリペ3世の下には遣日大使のビスカイノからの手紙も届いていた。そこには日本でキリスト教の弾圧が始まっており布教は危機的な状況にあること、この使節は日本の代表ではなく地方政府(仙台藩)の代表であることが記されていた。そのためスペイン国王との接見には、上陸から4カ月のもの時間がかかったし、最後は国王からの退去命令すら出されることになる。

 慶長遣欧使節の目的は仙台藩主伊達政宗がキリスト教の布教を(藩内で)認める代わりにスペインと仙台藩の直接貿易を実現させることだった。開幕から10年しか経っていない当時の徳川幕府は仙台藩のキリスト教受容の動きと西国の豊臣の残党とキリシタン大名達が連携して徳川幕府の足元が揺るがされることを警戒していた。そんな状況下で、常長は主君政宗に忠義の限りを尽くしてヨーロッパで粘り強い外交通商交渉を続けたのだった。しかし政宗へのローマ教皇の返書には“政宗自身がキリスト教信者になることが(仙台藩とスペインとの直接貿易実現の)条件だと明確に指摘されていた。常長の交渉がうまくいくはずはなかったのだ。

 常長をモデルにした遠藤周作の小説にこんな一節がある。

  • 『「殿(政宗)のお考えも評定所(幕府)の所存も変わったと思え。藩はもはや南蛮の船を迎え、その利を得ようとは思わぬ。ノベスペニア(メキシコ)と取引する気持ちも捨てた」
  • 「では・・・・・・」と侍(常長)はひきしぼるような声を出した。
  • 「我らをお遣いとされました次第も・・」
  • 「時勢が変わったのだ。お前たちの南蛮への長旅はさぞ辛苦であったろう。が、評定所はもうノベスペニア(メキシコ)に用はない。海を渡る大船もいらぬ」
  • 「では、我らがお役目は・・」
  • 「お役目など、もうないのだ」』 (「侍」遠藤周作/新潮文庫)

 ヨーロッパでの外交貿易交渉が失敗に終わった常長は月浦出発から5年後の元和4年(1618)6月、メキシコのアカプルコから日本への帰国の途中、フィリピンのマニラへ到着する。徳川幕府のキリスト教弾圧の動きは一段と加速していた。1619年10月には京都で52人のキリスト信教者が火炙りの刑になった。こんな国内情勢からキリスト教信者になっていた常長の帰国許可は簡単には下りなかった。1620年になって漸く認められた帰国許可には、(伊達)藩籍を離脱すること、布教活動をしないこと、(城下から)隠棲することの3条件が付いていた。元和6年(1620)11月、常長は長崎、江戸を経てひっそりと仙台へ帰着する。7年に及ぶ常長の苦難の旅が終った。常長の帰国を待っていたかのように仙台城下にはキリスト教禁止の高札が掲げられる。スペインとの外交・通商交渉が失敗に終ってキリスト教を容認する必要がなくなったからだ。それは徳川幕府に対抗してスペインとの直接交易による経済力強化を図った政宗の野望の失敗でもあった。

 スペインとの外交・貿易交渉のために3年近くヨーロッパに滞在した常長の関連史料(常長のローマ市公民権証書、常長の油絵の肖像画、ローマ教皇パウロ5世の肖像画など)は平成25年(2013)6月にユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。17世紀初頭の日本とヨーロッパの外交文化交流の重要な歴史史料と評価されたからだ。また常長を顕彰する「立像」はスペイン(上陸地、コリア・デル・リオ)、イタリア(上陸地、ローマ郊外のチヴィタヴエッキア)、メキシコ(経由地、アカプルコ)、キューバ(寄港地、ハバナ)、フィリピン(滞在地、マニラ)の5か所である。国内はすべて宮城県で、仙台市(仙台城址)、石巻市(出港地、月浦)、大郷(おおさと)町(支倉メモリアルパーク、隠棲地説の一つ)の3か所にある。支倉常長は日本史よりも世界史に足跡を残した人物なのだ。

 平成5年(1993)に宮城県・石巻市などの拠出金でサン・ファン・バウティスタ号が復元され、慶長遣欧使節の関連資料を展示するサンファン館が設置された。その5年後の夏、復元されたサン・ファン・バウチェスタ号を見に石巻へ行った。仙台からJR石巻線で1時間半、渡波(わたのは)駅に着いたのはちょうど昼頃、流れる汗を拭きながら坂道を歩いた。狭い入り江に係留されていた500トンの木造の帆船は思いのほか大きかった。スペイン人の食事に欠かせない豚の飼育部屋が復元されていたのにはちょっと驚かされた。帰りの石巻行きの路線バスの乗客はたった一人だった。運転手に「どこから来られたのですか」と聞かれた。復元されたサン・ファン・バウティスタ号と展示室(サンファン館)は2011年3月11日の三陸大津波で大破流出した。現在は修復されて再公開されている。

 厳しいキリシタン弾圧の最中(さなか)に失意の帰国を果たした常長を伊達政宗は仙台の西南30キロにある秋保温泉のさらに奥の砂金(いさご)村に隠棲させたという。もっともその隠遁地は諸説あって未だに定まっていない。7年に及ぶ過酷な外交貿易交渉の旅で常長の体はむしばまれていた。帰国からわずか2年後、常長は52才の生涯を終えたが、その墓所も未だに特定されていない。支倉常長は主君政宗の野望と徳川幕府のキリスト教弾圧の狭間で翻弄された悲運のサムライである。しかし400年後の今、徒労に終わった彼のヨーロッパでの外交・貿易交渉の足跡は「世界記憶遺産」として燦然と輝いている。

 この慶長遣欧使節にはもう一つ“影の歴史遺産”がある。彼らが延べ9か月も滞在したスペインの上陸地コリア・デル・リオ周辺に住む(スペイン語で日本を意味する)「ハポン」姓の約700人のスペイン人たちだ。彼らは常長とともにヨーロッパに渡った随員の中で日本に帰国せずスペインに留まった8人の日本人の末裔だと信じられている。

 

参考文献 「支倉常長―慶長遣欧使節の悲劇」(大泉光一/中公新書/1999)

 

ky

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