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コラム

シリーズ「歴史を学ぶ」① ロンドンの薩長同盟

2018.1.26
執筆者:ky

 日米修好条約締結から大政奉還までの10年間は250年以上続いた江戸幕藩体制(=鎖国体制)を開国“廃藩“集権体制に移行させた胎動の10年である。そのけん引力となったのは紛れもなく薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」だった。

 

 1858年

  • 日米修好通商条約調印(6月、黒船来航から5年目)
  • 島津斉彬急逝(7月)
  • 井伊直弼の「安政の大獄」始まる(9月)
  • 月照・西郷入水事件(11月)
  • 西郷・奄美大島に潜居命令(12月)

 

 1859年

  • 長州藩吉田松陰刑死(10月)

 

 1860年

  • 桜田門外の変(3月)井伊直弼暗殺(水戸浪士+薩摩浪士有村次左衛門)(幕府の権威に陰り)

 

 1862年

  • 西郷・奄美大島から召喚(2月)薩摩藩
  • 有馬新七ら尊王攘夷過激派藩士を上意打ち・寺田屋事件(4月)
  • 西郷・徳之島・沖永良部へ遠島命令(6月・7月)
  • 島津久光一行イギリス人殺傷・生麦事件(8月)

 

 1863年

  • 長州藩士5名、英国へ密航留学(5月)
  • 薩英戦争勃発(7月)
  • 8月18日の変(公武合体派の薩摩が会津と組んで尊王攘夷派公家と長州を京都から追放) 

 

 1864年

  • 西郷沖永良部から赦免召喚(2月)
  • 尊王攘夷派殺傷の池田屋事件(6月)
  • 薩摩・会津が長州撃破「禁門の変」(7月)
  • 幕府の第一次長州征伐(7月)
  • 4国連合艦隊長州下関砲台破壊(8月)

 

 1865年

  • 薩摩藩士など19名、英国へ密航留学(4月)  

 

 1866年

  • 坂本竜馬の仲介による薩長同盟成立(1月21日)
  • 第二次長州征伐で幕府勢敗退(6月)(幕府の権威崩壊)
  • 徳川慶喜第15代将軍就任(12月)

 

 1867年

  • 土佐藩主山内容堂の奏上による大政奉還(10月)
  • 坂本竜馬暗殺(11月)

 

 尊王攘夷派と公武合体派に分かれた藩グループの戦いが、倒幕か佐幕かに転換したのは薩長同盟の締結がきっかけである。その3年前の「8月18日の変」で長州は薩摩と会津に撃破され、尊王攘夷派の三条実美ら7人の公家は京都から長州へ都落ちした。しかし、同じ頃、攘夷に凝り固まっていたはずの長州藩は、藩の将来を担う5人の若者をイギリスに密航留学させていた。井上馨(28歳)、遠藤謹助(27歳)、山尾庸三(26歳)、伊藤俊輔(博文)(22歳)、野村弥吉(20歳)の5人である。藩主毛利敬親はリーダー格の井上に、5年間で西欧文明を吸収し、帰国後は藩の海軍興隆のために尽力せよという親書を与えた。彼らは、1863年5月12日、横浜港を出港し、上海、マラッカ、マダカスカル、喜望峰を経由して、3か月かけて11月4日にロンドンへ到着した。

 翌1864年に長州藩はさらに存亡の危機に追い込まれる。「禁門の変」では再び薩摩藩に撃破され、第一次長州征伐では「禁門の変」の責任をとって家老3人が切腹した。8月には下関の砲台が4国連合艦船に完膚なきまでに破壊されてしまった。

 長州藩に遅れること2年、1865年に薩摩藩も19名の藩士をロンドンへ密航留学させた。薩摩藩密航留学生は羽島(いちき串木野市)の藤崎家と川口家に約2か月潜伏した後、4月17日に長崎のグラバー商会が手配した機帆船オースタライエン号に羽島浦沖で乗船し、香港、シンガポール、スエズ運河を経由して2か月かけて6月21日にロンドンに到着した。僅か11日後に、長州藩の野村、遠藤、山尾の3人が薩摩藩密航留学生をベースウォーター街の宿舎に訪ねた。彼らは薩摩藩がなぜこれほど多くの留学生をイギリスへ派遣したのかを確かめるためだったという。その時、井上と伊藤は四国艦隊の下関砲台への攻撃を阻止すべく、わずか半年で留学を切り上げて帰国していてロンドンにはいなかった。

 こうして遠くロンドンで薩摩と長州の若き俊英たちの交流が始まる。世界最先端の造船都市だったスコットランドのグラスゴーへ造船学の習得に行く長州の山尾庸三に薩摩の留学生16人が、一人1ポンドずつカンパしたという。合わせて16㍀はいまの価値で約100万円だった。帰国した井上と伊藤に入れ替わるように長州藩の南貞助(18歳)と山崎小三郎(21歳)がロンドンへ渡航してきた。彼らも留学費用が十分でなく困窮の中で生活せざるを得なかった。1866年3月3日、若干22歳の山崎は、疲労と栄養失調から結核にかかり死亡した。山崎の亡骸はウォーキング墓地に埋葬され、ユニバーシティカレッジのウィリアムソン教授及び12名の日本人学生が出席して葬儀が行われた。参列した日本人のうち10名は薩摩藩の留学生だった。窮乏する山崎を死なせてしまったことに薩摩藩の留学生たちの悔恨は大きかったという。彼らには藩を越えた日本の意識が芽生えていた。山崎の葬儀が営まれた2か月前(1月21日)、日本では土佐の坂本竜馬+中岡慎太郎の仲介で薩摩の西郷と長州の木戸が会談し、急転直下、薩長同盟が成立していた。盟約には長州藩が将来幕府と戦うことになった場合、薩摩藩はその戦いに加わらず長州藩を支援する、両藩は皇位回復に協力して取り組むことが決められていた。

 両藩の密航留学生たちはイギリスの産業革命の現場を目の当たりにして、尊王だ、攘夷だ、と藩同士が争っている日本人の愚かさを感じたに違いない。250年も続けてきた鎖国体制は限界にきていたのである。そんな中でロンドンに派遣された密航留学生たちは、それぞれの(長州と薩摩)藩の将来を担う人材だった。長州藩5人には初代総理大臣伊藤博と初代外務大臣井上馨、薩摩藩19人には初代文部大臣森有礼と大阪商工会議所を創設した五代友厚がいた。

 長州の密航留学生たちには安政の大獄の嵐の中で30歳で刑死した吉田松陰の「精神」(今をいかに生きるかという強い志)が生きていた。長州藩の密航留学生の一人、初代総理大臣伊藤博文は松下村塾の塾生である。同じ密航留学ではあるが両者には大きな違いがあった。長州藩の密航留学生たちはそれぞれが密航留学を希望し殿様に願い出た留学だった。一方の薩摩藩の密航留学は五代の進言によって藩命で選ばれたものだった。

 薩摩藩密航留学生の一人に畠山丈之助(はたけやまたけのすけ)がいる。「一所持(いっしょもち)」と呼ばれる家格の高い門閥の家に生まれた23歳の畠山は保守的な考えの持ち主で、島津久光に直接説得されて留学を決意したという。羽島浦を出帆した時に悲壮ともいえる心情を詠んでいる。

  「かかる世に かかる旅路の幾度か あらんも国の為とこそ知れ」

  「君が為 忍ふ船路としりながら けふのわかれを いかて忍ひん」

 長州藩と薩摩藩の藩風の違いを明治学院大の武光誠教授が分析している。

 「薩摩の大提灯、長州の小提灯という言葉がある。薩摩人は仲間意識がつよく、大提灯を持つ人間に引きずられて集団で動く生きかたをする、長州人は一人一人が小提灯を持って思い思いの動きをする。彼らは、理詰めでものを考え、自分の得になる人間とうまく協調していく。一方の薩摩藩士は剛健で口数が少なく、あれこれ考えたり議論する前に行動する気質がある。」(「藩から読む幕末維新」PHP新書)

 薩摩の大提灯はいまも生きているように見える。それは自由と多様化の時代に決してプラスにはならない。

 

参考文献 「密航留学生たちの明治維新 -井上馨と幕末藩士」(犬塚孝明 NHKブックス/2001)

ky

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