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鹿児島のイッピン【薩摩切子】

2017.1.5
執筆者:菅井 憲郎(スガイノリオ)

1.はじめに

 

 筆者自身が薩摩切子の復元に携わったいきさつから始めます。

 今から、40年以上も前のことです。

 私は東京から鹿児島に転勤してきました。

 鹿児島に勤務していると、県外からの客を案内する機会が多くなります。そのような時に、必ず案内したのが、磯庭園(仙巌園)と尚古集成館でした。

 ここは、桜島の眺めが素晴らしいだけじゃなくて、歴史的にも文化的にも貴重な資料が、たくさん収蔵されています。

 この地は、薩摩藩の島津家第28代当主島津斉彬が、東洋のマンチェスターにすることを目指して、近代的工場群を集積したところです。

 ですから、世界産業遺産に登録された反射炉をはじめ、機械工場、紡績工場、水力発電施設などが展開していて、東洋の産業技術の先進地でした。

 この様な地に薩摩切子は、生まれました。

 

2.ガラスが日本に伝わるまでの概略

 

 この薩摩切子の誕生までの歴史をたどってみましょう。

 そもそもガラスが作られるようになったのは、4、5千年以上も前の古代メソポタミアと言われています。

 当時は、装身具としてのビーズのほか、杯、盃などが作られていました。    

 そのガラスが日本に伝えられたのは、ずうっと下って、弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀ごろ)のことと考えられています。というのは、この時代の登呂遺跡から青色のガラスの小玉が発見されているからです。     

 当時の日本では、ガラスは、貴重品だったので、高貴な人の装身具として使われていました。

 さらに、奈良時代になると、大陸からガラスの瑠璃杯や瑠璃椀が伝えられました。これらは、正倉院に収納されています。   

 やがて、日本でもガラスが生産されるようになりましたが、その後、鎌倉時代になると、一時、衰退しました。一方、メソポタミア、エジプトでは、モザイクガラスや鋳型で成形されたガラスが作られていました。

 さらに、16,17世紀になると吹きガラスの製法が開発されたことによって、大量生産が可能となり、大衆化が進みました。

 わが国では、戦国時代の末期になると、菓子入れ、酒器などの西洋ガラスが中央アジア、中国を経て伝わりました。   

 

3.江戸切子の開発

 

 その後、鉛と硝石を原料とした鉛ガラスを鋳型に流し込んで作る型ガラスや吹きガラスの製法が伝わりました。これ等のガラス製品は、ポルトガル語の「ビードロ」とか、オランダ語の「ギアマン」と呼ばれました。

 特に江戸時代になると、ガラス製の瓶や皿、カンザシなどが盛んに製造されるようになり、これらの製品は、「江戸ビードロ」と呼ばれました。

 1834年に江戸大伝馬町のビードロ屋加賀屋久兵衛が金剛砂を用いて透明ガラスにカットを施す技術を開発しました。これは、「江戸切子」と呼ばれ、透明ガラスが一層で、その表面にカット模様が施されて、光りを反射して輝く美しさを楽しむようになりました。

 この当時の江戸切子は、線と線の間隔が狭く、模様が細かいのが特徴です。 

 

4.鹿児島におけるガラス製造

 

 ガラスが鹿児島で製造されるようになったのは、19世紀になってのことです。

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島津家28代 藩主島津斉彬「鶴嶺神社蔵」

 島津家第27代当主の斉興のとき、薩摩藩では、火薬などの化学薬品を取り扱うためにガラスの器が必要になりました。そこで、1846年に中村騎射場跡に製薬・医薬館が創設されると、薬品などと合わせてガラスの容器が製造されました。 

 さらに、島津家第28代当主島津斉彬は、殖産興業を目指して、集成館事業を行い、1855年に、今の鹿児島市の北部に当たる磯の地に近代工場を集積しました。  

 当時の磯地域には、機械工場や紡績工場などのほか、ガラス工場もあり、そこでは、100人ほどが働いていたと言われています。

 

5.薩摩切子の開発と衰退

 

 ところで、この当時、大名たちは、自分の領地で陶磁器を作って、江戸城内で、老中や各藩の藩主たちに自慢し合ったといわれています。

 薩摩藩でも、朝鮮から伝来した陶工により創始された薩摩焼が生産されていました。

 しかし、斉彬は、陶磁器に代わる優れた産品の開発に取り組み、鶴丸城内で着色ガラスの研究をさせ、銅赤や金赤のガラスを開発しました。

 その後、薩摩切子の製造拠点を磯に移して、江戸から江戸切子を製造販売していた加賀屋の徒弟四本亀次郎を招き、集成館事業の一環として、ガラス製品を開発したのです。

 江戸切子と薩摩切子の違いは、江戸切子が一層の無色透明のガラスに細工を施しているのに対し、薩摩切子は、透明ガラスの上に着色ガラス層を被(かぶ)せ、二層になっているところです。なお、江戸切子も、後に、厚さ1ミリ程度の色ガラスを被(き)せた二層ガラスを製造しています。

 また、江戸切子はカットの模様が単純であるのに対し、薩摩切子の方が複雑で繊細でると言われています。

 江戸時代に、厚みのある紅色のガラスを被せた二層の切子を生産することができたのは薩摩藩だけだったので、将軍家や諸藩の大名たちが、こぞって手に入れたがったと言います。

 また、江戸切子は、庶民の日常生活用であったのに対し、薩摩切子は、大名の観賞用に製造されました。

 このころの薩摩切子は、紅色と藍色が主流で、盃、チロリ、脚付杯が作られ、「薩摩ビードロ」と呼ばれました。

 当時の薩摩切子は、約200点程度が現存していますが、この時代を代表する珠玉の製品と言われているものには、「脚付蓋物」(鹿児島尚古集成館蔵)、「藍色被三ッ組盃と盃台」(コーニング・ガラス美術館蔵)、「藍色被船形鉢」(サントリー美術館蔵)、「紅色被三段重」(びいどろ史料庫蔵)、『藍色被栓付瓶』(徳川記念財団蔵)があります。   

 1858年、斉彬が急死したことにより、切子の生産は鈍化し、さらに、63年に704薩英戦争が起きると、イギリス軍艦の砲撃を受けて、磯の工場群が焼失してしまいました。

 その後は、保守的な考えの持ち主だった久光が、藩政の実権を握っていたので、斉彬時代の先進的な事業は否定され、切子の生産設備は、破壊されたまま放置され、やがて、切子の生産技術者は、江戸に引き上げてしまい、薩摩切子の生産は、途絶えてしまいました。

 その後、一部の技術者は、萩にわたって、ガラス器の生産に携わったと伝えられています。「薩摩系切子」と呼ばれるものは、江戸に創業した市来四郎の開物社で製造されたカット・ガラス製品のことです。

 

6.薩摩切子の復元

 

 それが、120年の年月を経て、薩摩切子の復元の取り組みが、鹿児島県により始められました。

 1982年、県は、新しい産業づくりを目指して、斉彬の夢を受け継いで、日本の黎明期に途絶えてしまった薩摩切子の復元にとりかかったのです。

 その作業は、県の工業試験場が中心となって、尚古集成館の有馬寛慈館長と東京ガラス工芸研究所の由水常雄所長の協力を得て、薩摩切子に関する資料探しから始まりました。

 県は、磯の集成館をはじめ、県立博物館、黎明館をはじめ、国会図書館などを探し回りましたが、なかなか見つかりませんでした。貴重な資料のはずだから、どこかに大事に保管されているに違いないと考えましたが、なかなか見つかりません。

 どうも、当時は、貴重なものほど、門外不出としていたため、薩摩切子の生産技術は、記録に残さず、口伝えだったのではないかと推測されました。

 それでも探し続け、半年もたったころ、やっと、東京大学の資料庫にあったのを発見しました。その資料には、薩摩切子に関する製造に関しては、大まかながら記述されていましたが、二層のガラスの製作の仕方については、記載がありません。

 そこで、県は、当時の通産省と相談のうえ、国の補助事業として位置付けたうえで、由水さんの指導を受けて、薩摩切子の復元に関する研究・開発に取り組みました。

 そのうち、由水さんを通じて、色ガラスと透明ガラスの二層になったクリスタルガラスを生産している企業が千葉県にあることが分かりました。早速、その器を取り寄せると、湯飲み茶わんほどの大きさで、透明のガラスの上に青色のガラスが被(き)せてある二層の器でした。

 このことで二層の被(き)ガラスの製造と、成型については、既存の技術を利用することが可能であることが分りました。

 また、カット技術については、江戸切子の製造技術が伝えられているので、それを生かすことにしました。

 しかし、薩摩切子を復元するためには銅を原料とした紅と藍の色ガラスを自前で製造することが必要です。

 それらの発色については、現代のガラス製造企業のなかから適任の技術者を探し出そうということになりました。

 

7.開発体制づくり

 

 このようにして、大体、復元の道筋が開けたので、これまでの研究段階から具体的な事業化に向けての開発段階に進めることになり、開発主体を確立することになりました。

 そこで、県としては、これまでの協力のいきさつや、開発後の事業化のことを考えて、島津興業に引き受けてもらうことが最適と考えました。

 これまで、何かと協力をしてもらっていた集成館の有馬館長を通じて、島津興業に意向を打診したところ、ほどなく、快諾を受けました。

 島津興業は、さっそく事業化に向けた取り組みを進め、由水さんと相談してガラスの製造技術者とカット技術者を確保することになりました。そのうち、カット技術者については、由水さんの研究所でカット技術の研修を受けている研修生を誘致することにしました。それが、熊本出身の中根総子さんでした。

 なお、中根さんは、薩摩ガラス工芸社の取締役となって。「櫻亀」の称号を島津家の当主野火久から与えられて、現在を切子の製造に携わっています。

 中根さんには、千葉にある工場で生産されていた既製品の二層のガラス器を試験材料として、カットする技術を確立してもらうことになりました。

 また、国の補助を受けて、磯にプレハブの工場を建設し、カットに関する機械を設置しました。

 さらに、島津興業が発色技術を有する人材を探し、当時、山谷硝子に勤務していた新村和憲さんを誘致することができました。

 その後は、新村さんの指揮の下に生産ラインを整備し、技術者を雇用し、本格的な試作に入りました。

 このとき、県と島津興業との間で、研究・開発の仕方について、まずは、120年前の切子の復元をめざすこととし、その後に新製品の開発に取り組むことを確認しました。

 しばらくすると、新村さんが試作品をもって県庁にやってきました。その試作品は、銅赤と銅青のぐい呑みでした。見ると、あの集成館に陳列している薩摩切子と見まごうばかりの素晴らしいものでした。群青色の海のような透明感のある色合いで、手に取ってみるとしっかりとした重みのある器でした。

 しかし、よく見ると、二層のガラスの合わせ面に、粟粒ほどの気泡が一つ、二つ入っていたり、カット面にゆがみがあったりしていました。でも、それはまた、手作りの味でもありました。

 これを見て、斉彬公の夢を継ぐことができると思うと、ただ、感嘆し、誇りを感じたことを思い出します。

 その後の技術の進歩は、目覚ましいものがあり、急速に完成度をあげていきました。

 復元開発が、ここまで進捗したときに、県は、その製造のノウハウが外部に流出し、類似品が出回ることのないようにするため、ブランドとして確立することが必要であると考え、島津興業に「丸に十の字」の家紋を取り入れた商標を作って製品に表示することを助言しました。

 

8.薩摩切子の作り方

 

 現在、磯のガラス工芸社の工場では、30人ほどの職人が働いています。

%e5%b7%a5%e5%a0%b4%e5%85%a8%e4%bd%93%e5%83%8f 薩摩切子の生産技術は、「発色」と「被(き)せ」、「カット」に集約されますが、具体的には、次のような工程で生産されます。

  • 「溶解」
  • 「色被せ」
  • 「成形」と「徐冷」
  • 「カット」

 以下、生産工程を詳しく説明します。

 

『溶解』%e6%ba%b6%e8%a7%a3

 「溶解」とは、ガラスの主な原料である珪石を、1400度程度の窯の中で溶かしてガラス素材を作る工程です。このとき、鉛を混ぜると、溶ける温度が低くなるうえに、軟らかくなり、作業がしやすくなります。また、鉛分が多くなるほど透明度は高まり、重厚感が増します。

 

 このようにして作られた鉛ガラスは、光の屈折率が高いため、プリズムのように虹色の輝きを生み出します。

 現在は、鉛分が25%のクリスタルガラスを作っていますが、当初の江戸切子は、酸化鉛を45%前後含有していましたので、加工しやすかったと言われています。その分、もろく、壊れやすかったのですが、江戸の人はそれを魅力としていました。

 また、色ガラスは、ガラス成分に金、銀、銅などの鉱物を混ぜて溶解して、作ります。

 江戸時代の薩摩切子は、特に、銅赤と金赤が美しいと言われましたが、それらは、薩摩藩しか作ることができなかったと言われます。

 そこで、最初の復元の段階では、江戸時代に制作されていた銅を原料とした赤色と青色を中心に取り組むことになりました。その後、金を原料とした赤色、コバルトを原料とした瑠璃色、マンガンの紫色、クロムの緑色、銀をもとにした黄色などの色ガラスの開発にも成功しました。

 さらに現代の技術者は、赤味がかった紫色の「島津紫」を開発していますが、その原料は、門外不出ということです。

 銅赤と銅青は、ほぼ同じ工程で制作しますが、溶融のときに窯の雰囲気を酸素を多くすると酸化して青くなり、酸素が少ない雰囲気にすると、つまり還元状態にすると、赤色になります。このため、職人によると、「赤色のガラスを作ったつもりが、窯から出したら青黒くなっていた時がある」と言います。それほど、溶融の条件管理に、細心の注意が必要ということです。

 

『色被せ(きせ)』%e8%89%b2%e8%a2%ab%e3%81%9b

 「色ガラスの被(き)せ」とは、色ガラスと透明ガラスの二層のガラスを作ることです。

 

 復元開発当初、集成館に展示されている切子を見ると、透明ガラスの上に色ガラスが被せられた状態になっています。どのようにして透明ガラスの上に色ガラスを巻きつけていくのか、その技法が謎でした。

 一説によると、江戸時代、つまり薩摩切子の開発当初は、透明ガラスの上にペースト状にした色ガラスを貼り付けて作ったと推察されています。しかし、この方法によると色ガラスの厚みにムラができてしまいます。その分、変化があって、グラデーションに趣があって良いという説もありました。

 それにしても、この方法では、あまりに出来具合が不安定ですし、手間がかかり過ぎます。そこで、既成の二層ガラスを作っている工場を調べてみると、金型の中に、先に色ガラスを吹いておき、その内側に透明ガラスを吹いて、貼り付けることによって、二層のガラス器を作っていました。

 まことに、コロンブスの卵状況でした。

 それにしても、この被せのときに、前に型の中に吹いていた色ガラスと後から吹き合わせる透明ガラスの温度管理がうまくいかないと、合わせたところに気泡ができてしまいます。気泡を生じないで完成する割合は、半分ほどということですから、薩摩切子は、相当に難しい製造技術により創られています。

 

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『「成形」と「徐冷」』

 「成形」と「徐冷」は、二層になったガラスを金型から取り出して、宙吹きしながら、形を整える工程です。

 ガラス製品は、形が整っても、急に冷やすとひび割れができてしまいます。そのため、徐冷窯の中で、およそ460度から16時間かけて徐々に、常温まで冷やします。

 

『カット』

 二層のガラスの器ができると、「カット」の工程に進みます。%e3%82%ab%e3%83%83%e3%83%88

 薩摩切子の魅力は、カット面のぼかし(グラデーション)であり、そのぼかしが、趣を醸し出します。

 だから、切子の表情は、カットで決まるといわれます。

 カットは、江戸切子が開発された当初は、鉄製や木製の棒に、金剛砂などの研磨剤をつけて、職人の手技(わざ)で、こすって削ったと言います。

 この作業を「ガラスを切る」と言っていたため、このことが「切子」と言われ所以になりました。

 

 透明ガラスが一層の江戸切子は、このような職人による手作業によって造られていたため、カットの仕方の違いにより、ブレが生じ、それが幾重にも重なって、カット面が丸みを帯びて、柔らかみを醸し出しています。

 やがて、薩摩切子のカットの作業は、回転式の研磨機を使うようになりました。当初、その研磨機は、人力でロクロ挽きをしたといいます。現代では、電力を動力源とした回転式のグラインダーを使っています。

 カットの工程は、ア)割り付け、イ)粗削り、ウ)中摺り、エ)研磨の4段階です。

 

 はじめの工程である「割り付け」とは、模様の大体の位置を決めるために、割り付け器を使ってガラスの表面にヨコ線とタテ線を引くことです。

 手順としては、最初に親骨と呼ぶデザインの主となるタテ線を引きます。

 古薩摩切子は、内側にベンガラの溶液で割り付け線を描いていましたが、最近では油性の溶液で、線を外側に描きます。

 「粗削り」は、大きな模様や基本線をヤスリで掘ったり、合成砥石やダイヤモンドの粒子を付けた回転式の研磨機(グラインダ-)で、溝を刻みます。

 模様の深さ、デザインによって、砥石の大きさや形状を変えます。

 切子は、着色された削り面を回転盤の砥石に当てて削ります。このため、色のついたガラスの面とグラインダーの当たる部分が見えにくいため、経験により見当をつけて削ることになります。これが切子のカットの難しいところと言われています。

 カットは、最初に、太い線で下地の透明ガラス部分まで深く削ります。

 カット面は、100度から140度の角度で斜めの角度をつけてカットします。この部分がグラデーションになります。

 

 開発当初に、カットの技術復元に当たった中根さんは、このときのことを振り返って、次のように語っています。

 「最初は、切子に関する資料が何もなかったので、写真を見たり、実物を計りながら寸法出しをしました。」

 「難しかったのは、平面に映っている写真から図面に立体化して書き取るときに、カットのバランスを決めることでした。この当時は、試作を繰り返しました。」

 薩摩切子の模様は、魚子(ななこ)、籠の目、矢来(やらい)、格子などをベースにして、組み合わせてデザインします。

 これ等の模様は、細長い鉄の棒に水で溶いた金剛砂をつけて、細かい線で模様を切り出します。このとき、下地の透明ガラスまでは削らないで、色ガラスの部分を残します。

 このようにして職人たちの丹念な手作業により作られるので、その分、手のぬくもりを感じることができるといいます。

 

「磨き」

 次に、カットした面は、曇りガラス状の半透明なので、表面を研磨することによって、ツヤを出すための「磨き」の工程に進みます。

 「磨き」は、江戸時代では、桐などの木製の棒を使って、何度も擦ったと言われています。

 今は、竹ブラシ、木、ゴム、布などの素材を巻きつけた回転式のグラインダーで、磨き粉を使って磨きます。

 なお、模様によっては、半透明のままの部分を残しておく製品もあるということです。

 

9.魅力

 

 切子の美しさは、幾重にも重なったカット面が、光を反射して虹色に輝くところにあります。そのため、北大路魯山人は、夏になると、赤色の江戸切子に白い豆腐を盛りつけて、コントラストを楽しんだといいます。端正なカット面を傾けて見ると虹色の輝きが浮かぶので、普通の豆腐料理を透明感と涼しさのある特別な料理に変えたということです。

%e3%81%a1%e3%82%8d%e3%82%8a 薩摩切子の特徴は、透明ガラスの上に、厚みのある色ガラスを被せ、切り口を斜めにカットすることにより、グラデーション、すなわち、「ぼかし」があることです。

 

 1866年に鹿児島を訪れた駐日イギリス大使館の通訳のアーネスト・サトウ氏や公使のパークス氏は、薩摩切子の工場を訪ねたときに、その技術と芸術性の高さに驚いたと言われています。

 

 銅青の薩摩切子のカット面は、南のサンゴ礁の海岸に立ったときに、足元の透き通るような水色の海面から、遠く、水平線の濃紺の海面まで続くグラデーションを思い浮かべさせます。

%e6%96%b0%e4%bd%9c 薩摩切子は、このグラデーションによって、クリスタルでありながら、柔らかさと温かみを作ることができます。

 また、きめ細かいカット模様が、繊細さを醸し出し、光を透してカットされた面をみると、角度によって、光を反射して、キラキラ輝きます。

 薩摩切子の製品は、酒器、菓子入れ、皿、椀などのほかに、ペンダント、ステイショナリ―などがあり、多様化しています。

 

 ところで、薩摩切子のガラス素材の製造とカット技術は、アイルランド系のカット・ガラスの技術を伝承していると言われています。

 また、船型の鉢に施されたコウモリ紋は、中国から伝来したデザインです。

 このように薩摩切子は、西洋と東洋の文化・技術を融合させて、特色あるガラス製品を作っていることが魅力になっています。

 

 制作現場の職人は、次のように言っています。

 「ガラスという無機質なものでありながら、たくさんの人の思いが詰まっているため、手作りならではの温かみがある。」

 「成形、カット、磨きと長い時間かけて作り、最後に仕上がった製品に島津のサインを入れるときにやりがいを感じる。」

 

 %e4%b8%ad%e6%a0%b9%e3%81%95%e3%82%93カットの技術者中根さんは、

 「ロマンを伝承しながら、新しいものに広げています。」

 「使う人の目線でデザインしています。切子は、横から見ても美しく、中をのぞき込んでも楽しめます。」と言います。

 新しい展開といえば、薩摩ガラス工芸では、最近、新しい試みとして、鹿児島の自然を表現した二色被せの三層ガラスの器が開発されました。その技術者に聞くと「被せ技術を生かして、新しい世紀に向けてチャレンジしたものです。」と言うことでした。

 その製品には、

 夕日が沈み、暮れなずむ空のグラデーションを表現している「瑠璃金」

 南国の海の青さ、絶えず表情を変える透き通った海のような色彩を表している「瑠璃緑」

 新緑の涼しさ。太陽の光を浴びて、生き生きと輝く植物の生命感を表現している「蒼黄緑」

があります。

 

 この稿では、最初に復元開発に取り組んだ薩摩ガラス工芸を中心に説明しましたが、その後、同社を巣立っていった技術者が宮崎県綾町や鹿児島県薩摩町などで、薩摩切子の技術を生かした取り組みをしています。

 

 なお、1989年に、薩摩ガラス工芸(島津興業の子会社)の製品は、鹿児島県伝統的工芸品に認定されました。

 

菅井 憲郎(スガイノリオ)

菅井 憲郎(スガイノリオ)

慶応義塾大(経済)卒。
警察庁、外務省、兵庫県、茨城県に勤務後、鹿児島県庁で青少年育成、消費者保護、国際交流、高齢者福祉、職員研修、産業振興(商工業、林業、水産業)、ウォーターフロント開発等を担当。その後、鹿児島総合研究所専務取締役、鹿児島国際大学大学院教授、鹿児島県立短期大学講師等に勤務する傍ら、運輸事業(バス、船舶等)の経営にも携わる。
著書に「自治体の国際化政策」、「ムラからの国際交流」、「虹色の鹿児島を描く」など。政策研究・論文及び講演等多数。

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